東京朝霧山岳会活動日記Ⅱ

会山行活動の簡単な報告です!

ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ上記画像:インド ガンゴトリ山群 バスキパルバット(6792m) ㅤㅤㅤㅤㅤ ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ ※各画像をクリックすると拡大されます

三浦半島 鎌倉玉縄丘陵

『鎌倉には、歴史的風土保存地区となり宅地開発されない地域が幾つもある・・・』から始まった鎌倉緑の小山探しは、三浦一族と北条氏争いの城址探しへと繋がりました。 戦国時代に鎌倉幕府で重責を担った三浦一族と相模に勢力を得た北條氏との対決の舞台の住吉城・玉縄城・天神山城で、最初に行った天神山は鎌倉幕府滅亡の際の州崎の戦いで、北条守時が陣を置いた所でした。次に行った相模住吉城は、北条早雲が関東進出に取立てた城で、その後三浦道寸に攻め落とされたと謂います。今回の玉縄城は、北條氏が三浦氏攻略拠点と1512年に築城したもので、1526年の安房の里見実堯、1561年の上杉謙信、1569年の武田信玄等の攻撃にも耐え抜いた「難攻不落の城」と謂われていました。しかしその城も、1590年の豊臣秀吉小田原攻めで、徳川家康に包囲されて開城に至ったとのことです。 現在、この城の城郭は残っていませんが、その周辺には「早雲台」「城山」「城廻」等の因んだ町名が付けられています。これらの地名と古地図を参考に遺構探しをしてみました。この城は、南側を流れる柏尾川の北側台地にあたります。先ずは、城南東からのアプローチ「七曲り坂」に行ってみました。七曲り坂入口には、番匠の長屋門があり、何か雰囲気を出していました。上り切った先は虎口跡となっていました。次に城南西からのアプローチ「ふわん坂」に行ってみました。「不安」が由来かどうかは不明ですが、かなりの急坂でした。それらの坂の上の台地は諏訪壇と呼ばれ、現在清泉女学院の敷地内となっていて、立ち入りが禁止されていました。しかし校門前の巨石は、玉縄城遺構の一部と言われているようです。諏訪壇は高台の曲輪(クルワ)となっていて、当時は守護神の諏訪神社があったそうです。・・・5月末の西丹沢帰路事故での打撲や骨折は2ケ月も経てば治癒しましたが、脳挫傷からの硬膜下血腫は日と共に悪化して、手足の不調をきたしました。しかしお陰で、全てのルートグレードが上がり、近隣探索レベルでも結構楽しめるようになりました。・・・やったネ。?( 朝霧  植田 )

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( 里山歩きからヒマラヤ登山・・・それが我々のフィールドです ) ㅤㅤㅤ 東京朝霧山岳会